小池は彫刻、ペインティング、ドローイングと様々なメディアを利用して人間の持つフェティシズム(呪物崇拝)の部分を抽出し作品にし表現してきました。その原始的なコンセプトは今を生きる我々の思想やそのすべてをもっともシンプルに後世に伝える良い手段ではないかと思います。
魅惑的なオーパーツ : : 三浦愛正
制作ノート : : 小池一馬
English follow is below.
魅惑的なオーパーツ 三浦愛正
“私がテレビで見た水晶髑髏に釘付けになったのは小学生の時だった。水晶から削り出された妖艶な光を放つその髑髏は、古代の遺跡から発見されるもその完成度の高さから当時の技術では制作不可能と判断され「オーパーツ」(時代錯誤遺物)と呼ばれた。多くの学者たちを困惑させ、そのあまりにも神秘的でミステリーな存在に驚嘆したのをはっきり覚えている。エジプトでピラミッドを見たとき同様であった。ピラミッドに見た途方も無い作業の痕跡と古代から残る様々な問いなき回答の前に、私は知覚の断絶をよぎなくされその圧倒的な存在に感動していた。これら水晶髑髏やピラミッドの宿す神秘的な力や思想が私に与えた影響力は大きく、今でも私の中の誠実なモニュメントであるに違いないし、そういった根源的な思想のみが自身にとって普遍的な力を持つということは明確であった。だから私は美術に携わることを生業としているし、いつも美術の片鱗に「オーパーツ」の存在を求めている。“
オーパーツと言われるものや古代文明、ミスティックに富んだ事実の発見などはこれまで数々の神話や伝説を生み、いつの時代も後世の人々を魅了し、その事実との差異を埋めようと沢山の思想や見解を生んで来た。オーパーツと同様、美術とて同じことが言える。美術といえる言葉が出来る以前から、言葉以上の”何か”を伝えて来た美術において、多岐にわたる表現は作品と現実との差異を生み、その差を埋めようと他者の介入と解釈の連続により新たなるパラダイムが生まれ社会の流れとなり、今でもなお多くの人々の関心を美術へと向かわせている。
私は小池の作品全体から感じられる荒廃した静寂感はから「オーパーツ」を感じずにはいられない。作品に描かれる秘儀的な要素の数々や誰もが持つ前時代の理論を欠いたユートピアへの憧れもそうだが、それだけではなく背後に潜むうかがい知れぬ他者への闇や古代からの盲目な神への信仰心と例えることができようか、その時代性を欠き様々なモノや事実と距離がとられた作品には、埋めることの出来ない差異が存在している。作品は完成したその瞬間からその深淵なる差異ゆえ行き場を失い、どこにも所属できず不断に失われていく時代をこえ独自の存在として存在する。全ての文脈から切り離され突然我々の前に違和感をもって現れた水晶髑髏のように、時空をこえた小池の作品は、怪しく魅惑的な差異を保ちながら、多くの人々の好奇心・探究心をくすぐり続け新たなる思想や見解を生みながら、時代を超えて私たちを怪しく魅了しつづけるのである。
Mysterious OOPArt Aisho Miura
When I was an elementary school student, my eyes were riveted on a transparent skull on TV. The skull carved out of a crystal was giving off glamourous light. Crystal skulls were discovered in ancient ruins, however, there was no way they could have such a high technology in those days, with which the perfect form of the skull was made. It was validated as an 'OOPArt (Out-of-place artifact),' and puzzled many scientists. I clearly remember that I was shocked by the incredibly mysterious and fascinating existence of it. It was much like when I
saw pyramids in Egypt. In front of the pyramids, I perceived traces of endless labors and 'answers without a question' transcended from an ancient time. I was inevitably numbed and roused by the overwhelming presence. Magic and thought which crystal skulls and pyramids possess powerfully affected me, and they have been the monuments of truth for me. Fundamental and original thoughts only have a universal power over me. Therefore, I am involved in art, and still seeking 'OOPArt' in it.
Things called 'OOPArt,' ancient civilizations, and the discovery of facts full of mystic secrets, have given birth to numerous myths and legends, and enchanted future generations through all ages. To bridge the gap between reality and mystery, people have thought out a great deal of new ideas and views. Art has the same quality as does 'OOPArt'. Since before being called 'art,' art has communicated things beyond description. A variety of ways of expression have caused the distance between a piece and fact. Successive intervention and interpretation by others trying to fill the gap, cause a new paradigm, which makes the tide in society. Thus, art constantly interests many people.
I sense 'OOPArt' in the desolate quietness that Koike's whole work owns. There represented on canvas are elements of mystic rituals and everyone's longing for Utopia without any theory from a previous generation. Behind them, there also lurk unknown darkness in others and blind worship of gods since ancient times. In Koike's works, taken out of any context of time and distant from any things and facts, there is a wide gap that cannot be filled. Because of it, a piece when completed, being unable to belong to anywhere, exists as a unique presence beyond generations ceaselessly lost. Taken out of any context, the crystal skull all of a sudden appeared in front of us with irreconcilability. Beyond the context of time, Koike's works similarly, possessing an unidentified and mysterious gap, keep tickling people's curiosity and spirit of inquiry, and consequently generate new thoughts and viewpoints. His works, therefore, will queerly fascinate us beyond generations.
memo : : 小池一馬
2008年夏の終わりに東京から新潟、富山、京都、奈良、和歌山、岐阜を二週間使って周った。行きたい場所を線で繋いでいっただけの無計画さと、車を運転しないからか、自分の距離感がかなりアバウトなせいで慌ただしい旅行となった。大半の時間は移動。電車やバスや飛行機といった、乗ったらあとはボーッと窓の外を眺めているだけで目的地に着くというのはとても好きで、あの段々自分が霞か霧の様に薄い存在になって消えるような不安な気分、それでいて同時に訪れる高揚感は何だろうと考えていた。
2012年はマヤ暦で第五期に入り、時間も空間も関係なく、暗闇も明るさも同等で、どちらが良いも悪いもないすべてのものを受容する世界に突入すると聞いた。それは既に緩かに移行されて行っているとも。どういった世界なのか想像も出来ない。Y染色体が死滅するのは確実だと分かった様だ。新しい物差しが生まれつつあるということなのだろうか。
この旅で特に印象に残ったのは、瑞泉寺の井波彫刻、護国寺の立体曼荼羅、高野山の石塔群、串本応挙芦雪館の長沢芦雪筆龍虎図だった。それらは長い時間を経て私の眼の前にあったわけだが、私は心地好い無時間性のようなものを感じていた。旅の終盤に和歌山の串本で時間を持て余し、レンタサイクルで急な坂道を立ち漕ぎなんかしながら、本州最南端へ行ってみた。そこで空一面の羊曇を見ながら、最近の自分の制作方法について考えていた。ベニヤ板を重ねていく、色の粒を敷き詰めていく、色の断片を並べていく。時間を要する単純作業。くり返しによって生じるコントロールの効かないズレを受容する。または自分を無化していく儀式。
ジャズ・ミュージシャンでエリック・ドルフィーという人がいる。彼は「音は瞬時に空に消え去ってしまう。二度と捕まえることはできない。」 と言った。瞬間の粒を聴いているのだろうか。
今、私の目の前には旅のスナップやメモ、ちょっとしたドローイングが並べられている。これらの中から選び出した断片を基に一つ作品を作ってみるとする。私が遭遇する様々なこと、それらの作用によって生まれる感情、制作という紡ぐ行為、蓄積と磨耗、発見と忘却と変異。私はぐるぐる環を回る。
