Joji Sato
佐藤譲二
Tokyo, Japan
Lives and works in Tokyo

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Joji Sato
映像イメージを絵画イメージに置換する。
僕の絵画制作は、ほとんどこの作業に拠っている。静止画である写真あるいは画像(本や雑誌の写真、ネット画像など)からくる映像イメージを使用しているが、僕にとっての映像イメージは時間概念を伴った運動イメージが大きい。つまり映画イメージといった方がより明確になるかもしれない。絵画という固定的で静止化された平面的イメージのなかで運動イメージを喚起させることが出来るもののひとつとして、オーバーラップという映画的技法を絵画のなかに挿入する。フェードインからフェードアウトの間で複数の映像を重ねるオーバーラップのイメージは多層化していき、具象イメージから抽象イメージへのベクトルが出現する。重層すればするほど、具象イメージのもつ輪郭と面が細分され分裂化していく。その果てには混沌としたイメージ、つまりカオスの世界が出現する。それは、僕にとっての視覚的なノイズイメージにもなっている。映画から生れる運動体というのは、垂直にしろ、平行にしろ、A地点からB地点まで時間に沿って直線的に流れていくが、オーバーラップだけをピックアップしてみると、重層的な運動体が現われてくるのであり、不思議な視覚的感覚をもたらす。絵画へ導入された重層的なイメージは、構図的な運動(北斎)や描写技法から生れる運動(イタリア未来派)のイメージとは別のところにある、全体構造的な運動イメージが現われるのではないか?このようにして固定された平面体である絵画の持つ可能性のひとつとしてオーバーラップによる絵画への移行をキャンバス上で実現してみるのである。
モノクロ画面は、サイレント映画による、映画が音声に頼らなかった時の表層イメージである。感覚器官のひとつが欠落したまま、世界を知覚する僕にとってサイレント映画の存在は特別である。映画生誕からトーキー移行までの約40年の間、見ることが全てであるかのように映像だけで画面を構成し、視覚的世界を創造してきた。今では当然のように映像と音声が一体化されているけど、映画とは根源を遡行していけば、単純に視覚的なものから出発した芸術的表現媒体であったのである。モノクロ画面による表層イメージの選択は大方無意識からきたものではあるけれど、視覚的イメージの純度が高い絵画にモノクロ画面を行使するという行為は、聴覚の欠如といった僕自身の持つ視覚的身体性からくる成り行きのひとつなのかもしれない。
C.V.
2009 Analytic Limits-blue-/AISHO MIURA ARTS
2009 tanuki-no-ten/re-cycle
2009 scramble vol.2 /AISHO MIURA ARTS








